大菩薩峠の著者

 こちらは大菩薩峠の著者、相当沢田に対する予備認識も出来たし芸風も眼のあたり特色も看《み》て取っているしその実力に相応して顔馴染の少ない立場にいることに同情も持って居りまたこれを拉《らっ》し来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったものだから、まあともかく脚本を書いて見ろという処まで進むと、沢田は大いに喜んで座付の行友李風《ゆきともりふう》という作者に書かせてその原稿を我輩のもとへ送り届けてよこした、どうも行友君などという人は旧来の作者で我々の思うところを現わし得る人でないという予感もあったけれども、とにかくそれを読むと全然ものになっていないのである、そこで余輩はそのことを云って返してしまった、そうすると、更にまた書き直して送って来た、それもいけない、都合何でも四五回書き改めさせたと思う、最後に至って実によく出来た、固《もと》より行友君という人がそういう人だから内容精神に触れるというわけには行かないが、それにしても練れば練るだけのことはある、最初の原稿とは雲泥《うんでい》の相違ある巧妙な構図が出来上って来た、そこで余輩もこれを賞めて、なおその原稿に詳細な加筆削除を試みたり、附箋をしたりしてこれならばといって帰してやった、(この我輩書き入れの原稿を木村毅君が今所持しているとのことだが、それはたしかに第二回目の時のものだろう、最初のは震災や何かがあり、沢田の身の上にも転変甚だしかったから十中の十までは消滅しているに相違ない)斯うして訂正の脚本原稿と相当に激励の手紙を添えてやると、それを受取ったのが沢田が何でも道後あたりへ乗り込んでいた時ではなかったかと思う、その原稿と手紙を受取って見て沢田と行友とは嬉し泣きに手をとり合って泣いたというようなことがたしか当時の沢田の手紙に書いてあったと思う、その辺までは至極よろしかったが、それからそろそろことがよろしくなくなって来た、もともと我輩の希望には自分の作物の発表慾とか沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心していたのだ。 併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台はこっちで開かねばならぬ、気に入らなければ即座に中止改演ということを堅く約束した、それが為には何処まででも我輩は試演の見分に行く、そうしてその試演が気に入らなければ何時でも止める、或は練りに練り直した上で公開すると斯ういうことを堅く手紙で約束して置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々《わざわざ》神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっての本興行だ、それを見た我輩の失望落胆から事がこじれて来た。

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